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千庵はそれより4代目にあたり、寛政10年(1798)に父甫三の2男として生まれました。父の 甫三は若い頃江戸に登って幕府医官岡甫庵について漢方医学を学び、病理や薬剤の研鑽にも努め た人で、難病については師の甫庵の意見をはじめ、広い学問的交友関係をもっており、学究的・ 合理的な治療態度は近在のフ窓者たちの評判になったほどの人だったようです。特に晩年には蘭方 医学にも興味をもち、文通をしていた京都の開学者藤林普出が来越し、森田宅にも寄ってからは、 学んだ蘭方医学の成果を治療に取り入れ、そのことは有名になっていたようです。こうした雰囲 気の中で、千庵は育ちます。14歳で江戸に出て、古医学を学びます。しかし次第に父の影響で開 学に傾斜していき、文政3年(1820)に藤林普山が来越した時の誘いを受けたことで、翌4年上 洛し、普山の藤林塾に入門します。時に23歳。在京中は普山の門弟中でも一頭群を抜き、蘭方医 小森玄良が西刑場でおこなった解剖に参観を許され、また「クルムスの解体図表」や薬の品質・ 強度の基準を定めた「バタビア局方」の翻訳、さらに蘭日辞書「西語名寄」をまとめています。 短期間でこうした力を発揮しえたことに驚くばかりです。文政6年からは江戸に登り、宇田川玄 真・絡庵の宇田川塾に入門、一層の蘭語と蘭方医学の研鑽に努めます。また同9年から翌10年に かけては長崎にも遊学し、有名なシーボルトにも師事しました。しかし同11年に父が没したため 加茂に帰り、以後は家業を継いで地域医療に専念していきます。 千庵の名を高めたのは、天然痘(痘清)の種痘を越後で最初に取りくんだことと、家伝薬の一 粒丸を改良し、広範囲に販売したことであろう。一粒丸はアヘンを基にした腹痛・下痢止め妙薬 として売り出され、特に嘉永5年(1852)からは江戸本町2丁目の大黒屋儀助を通じて江戸でも 販売したことである。小林長栄氏所蔵の嘉永6年「為取替一札之事」という証文によれば、開店 にあたって大看板をはじめとする諸費用に265両にもなる借金を大黒屋にしている。看板は加茂 の森国家のもの(青山学院大学図書館所蔵)と同じく「Hollandsch Remedie 一粒丸」と記さ れていたと推測されるが、こうした大金を借りても売れゆきに千庵が自信を持っていたことが推 測されます。